spoon

Overview A sense of Rita 特別座談
「spoonプロジェクト」を取り巻く様々な事柄を知ってもらうために

spoonプロジェクトとは コロナ禍に伴う生活状況の悪化で困窮するひとり親家庭を食でサポートするプロジェクト。

いまだ収束をみない新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言の発令や外出自粛、飲食店の時短営業などの経済活動の自粛に伴い、「コロナ禍で仕事が減り、困っているひとり親家庭がたくさんある」というお話を支援団体の方から聞いたことがきっかけでこのプロジェクトは生まれました。

ap bankの活動を振り返ってみると2003年に設立してから、初めは環境問題等に頑張られている方々への融資活動、2011年以降は東日本大震災からの復興支援活動としてリボーンアート・フェスティバルを展開、と続いてきたと思っています。

気候変動問題や災害支援等の重要性はますます僕らも頑張っていかなければならないことと感じておりますが、このコロナの時代になってから一般的な女性の雇用が失われているという話を何回か聞く機会がありました。
縁があって「NPO法人しんぐるまざあず・ふぉーらむ」の方々と知り合うことができまして、経済的に困っておられるシングルマザーの方々においしいスープを届けると言う「spoon」プロジェクトを半年前ほどから始めています。
そしてこれから腰を据えて長期的に、この「spoonプロジェクト」を発展させて進めていきたいと考えています。

最近、格差問題がデジタル問題などとともに急浮上しているように思います。
僕たちの足元にそういった問題から始まる貧困が、自己責任で生きなければならないという社会からのプレッシャーとともに広がっているように思います。
ap bankではこれからこの問題に取り組んでいきたいと思っているのですが、「格差から来る貧困」が孤立した問題にならない方が良いと考えます。単に人ごとに終わらず、日頃生きてる人々の生き方・考え方に価値観を少し変えていけるようなことになると良いと思ってます。

今回は「A Sense of Rita」対談でご一緒させていただいた皆さんの中から、ap bank始まって以来ずっと気候変動、環境問題、などいろいろな話でやり取りさせてもらっている枝廣淳子さん。「A Sense of Rita」でも、最近ではBank Bandが出演したNHK「SONGS」でもその言葉をよく使いましたが「利他」と言う言葉。それを「利他学」として扱っておられる伊藤亜紗さん。黒人が持っているカルチャーに若い時から向かわれ、「身を寄せる」という感覚で行動して実感に導いている辻信一さん。
そしてゲストに、NPO法人しんぐるまざあず・ふぉーらむ理事長の赤石千衣子さんを迎えた座談会をお届けします。

小林武史

座談会参加者プロフィール(50音順)

伊藤亜紗(いとう・あさ)

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院教授。MIT客員研究員(2019)。専門は美学、現代アート。主な著作に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』、『ヴァレリー芸術と身体の哲学』(ともに講談社)。「WIRED Audi INNOVATION AWARD 2017」、第13回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞(2020)受賞。第42回サントリー学芸賞受賞。

枝廣淳子(えだひろ・じゅんこ)

大学院大学至善館教授・幸せ経済社会研究所所長。『不都合な真実』(アル・ゴア氏著)の翻訳をはじめ、環境・エネルギー問題に関する講演、執筆、企業のCSRコンサルティングや異業種勉強会等の活動を通じて、地球環境の現状や国内外の動きを発信。持続可能な未来に向けて新しい経済や社会のあり方、幸福度、レジリエンスを高めるための考え方や事例を研究。教育機関で次世代の育成に力を注ぐとともに、島根県海士町や熊本県南小国町、北海道下川町等、地方創生と地元経済を創り直すプロジェクトにアドバイザーとして関わっている。
主な著書に『プラスチック汚染とは何か』『アニマルウェルフェアとは何か』(いずれも岩波ブックレット)ほか多数

辻信一(つじ・しんいち)

文化人類学者、環境=文化NGO「ナマケモノ倶楽部」代表、明治学院大学名誉教授。
1952年生まれ、1977年北米に渡り、カナダ、アメリカの諸大学で哲学・文化人類学を学び、1988年米国コーネル大学で文化人類学博士号を取得。1992年より2020年まで明治学院大学国際学部教員として「文化とエコロジー」などの講座を担当。またアクティビストとして、「スローライフ」、「ハチドリのひとしずく」、「キャンドルナイト」、「しあわせの経済」などの社会ムーブメントの先頭に立つ。『スロー・イズ・ビューティフル』、『常世の舟を漕ぎて』など著書多数。最新刊は『「あいだ」の思想』(大月書店)、DVD『レイジーマン物語ータイの森で出会った“なまけ者”』(ナマケモノ倶楽部)など。

赤石千衣子(あかいし・ちえこ)

NPO法人しんぐるまざあず・ふぉーらむ理事長。自身も当事者で、シングルマザーと子どもたちが生き生きくらせる社会を実現するために活動している。コロナの感染拡大でひとり親世帯に食品支援パッケージを送る「だいじょうぶだよ!プロジェクト」を行っている。シングルマザーサポート団体全国協議会代表。社会福祉士。著書に『ひとり親家庭』(岩波新書)、編著に『母子家庭にカンパイ!』ほかがある。

Special Talk A sense of Rita 特別座談
「spoonプロジェクト」を取り巻く様々な事柄を知ってもらうために

小林:枝廣さん、辻さん、伊藤さん、お久しぶりです。
ap bankでは10/3にap bank fesを無観客配信でやることになりまして、その前にはBank Bandのアルバムも出ます。その中で収益が出てくるわけですが、僕らはその収益をap bankの立場としてどういう形で使っていくかというところを考えてきました。
もちろん気候変動に対しての思いも引き続きあります。ap bankはそもそも地球環境など大きな視野に立ったところから始まって、2011年の東日本大震災以降は、それもひとつの地球のメカニズムである自然の猛威というところに僕らが身を寄せるという形でReborn-Art Festivalもやらせてもらってきました。
そういったなかでいろいろ考えたのですが、今回ap bankでは新たに「spoonプロジェクト」というものを始めることにしました。
この「spoonプロジェクト」は、もう半年ほど前からスタートしているんですが、この度のコロナ禍の中では自分たちの足元に潜んでいる格差であるとか、そこから生まれる貧困のようなものが浮き彫りになっています。メデイアでは、派遣などの正規雇用ではない方、特に女性は離職率が非常に高いなどということが報じられもしています。そのようなことが孤立した問題にならないように、それらを取り巻くさまざまな支援をしていこうというのがこの「spoonプロジェクト」です。今回のap bank fesを配信で観てくれる人たちにもこういったことを伝えていきたいと思っています。
枝廣さん、辻さん、伊藤さんには僕の対談集『A Sense of Rita』にも参加していただきましたが、ぜひこのプロジェクトでもつながりを作っていけたらと思っています。今日も途中からになりますが、すでにやりとりしている「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」の赤石さんという方もこの話に参加してくださいます。

ap bankでは、この「spoonプロジェクト」を10年ぐらいの長い視点で見ていきたいと思っているんですが、これまで取り組んできた気候変動の話の中でもよく、弱い立場の人ほどその影響を受けやすいということが言われてきました。今年も世界中で異常気象が起こっているわけですが、そのあたりについて枝廣さんはどうお感じになっているでしょうか。

枝廣:変動は、いろんな意味で格差を助長することになってしまっていて。1つは、気候変動の原因であるCO2の排出は、お金を持っている人たち、もしくは先進国のほうが圧倒的に多くて、途上国はごく少ない排出しかしていないのに、被害は全世界に起こってしまう。
お金のある人は、それに対して保険を掛けるとか、安全な所に移住するとか、身を守ることがお金を通じてできるけれど、弱い人たちはそれができない。なので、取り残されて、自分たちは排出していないのに、被害をたくさん受けてしまう。
例えば、私も取材に行きましたけど、ツバルとか。電気もほとんど使っていなし、CO2を出していないのに島が沈んでしまう。そういった意味で言うと、気候変動は格差を助長するというか、ぜい弱な人たちにより厳しい影響があると思います。
私は今、熱海に住んでいるんですが、7月3日に伊豆山で土石流が発災して、その後、地元の方々と支援チームをつくって、今でもずっと支援活動をやっています。あれも、盛り土の問題とかいろいろありますが、異常な雨の降り方自体が引き金になったのは間違いなくて。そう思うと、各地でああいう影響が出てしまう。
日本はもちろん進んでいる国だけど、熱海の特に伊豆山は高齢化率が非常に高くて。そういった意味で言うと、また戻れないかもしれないとか、ぜい弱な人たちになっている。住んでいた子どもたちも今、なかなか自分たちの学校に行けない状況になっている。
未来創造部で、そういった子どもたちが土日に来て遊んでもらえるような場をつくって提供しているんです。もろい人たちに影響が来るところを、どうやってみんなで支えていけるかというのが、本当に大事になってきているなと思います。

小林:僕も、震災のあと東北に入っていって、そこに行ってみて身を寄せて分かることがあるということに気づかされました。
それは、弱い立場の人たちが「かわいそうだから」という形で近寄っていったというよりも、その中にある命の輝きみたいなものを逆に僕らの方が学ばせてもらうというような形でした。生きている実感みたいなものを感じさせてもらって、逆にすごく感謝するようなことがたくさんあったんですけれども。
それは”弱い立場だからこそ”ではないのかもしれないけど、やはりそこに反骨精神やカウンターの思いが生まれるということはあって。これまでもそういうところにカウンターカルチャーが生まれてきたポジティブな歴史があると思うんですけれども。
辻さんはもともと黒人音楽が好きでというところからアメリカに渡って当時のカウンターカルチャーを肌で感じたことからご自身の活動が始まっているということでしたよね。今の話の流れでも使わせてもらった「身を寄せる」というのは以前の対談で辻さんからお聞きした言葉なんですが。素適な言葉だなと思っています。

辻:小林さん、あの映画観た?『サマー・オブ・ソウル』

小林:あ、まだ観てないんですよ。

辻:あれは観なきゃ駄目ですね。この夏の僕の中の大きな出来事で、2度観ているんですけど、ほんとにびっくりしました。あれは69年の夏、ちょうどウッドストックの裏側にあって。ウッドストックというのは割と歴史に残るんだけれども、その時にニューヨークのハーレムで行われたのべ30万人が集まったというコンサートの記録が、その後50年ぐらい地下室に埋もれていたというものです。69年というのは僕にとって原点で。感慨深く改めていろんなことを考えさせられました。
その同じ夏に月面着陸があるんです。で、そのコンサートの中で聴衆にインタビューしていく。「月面着陸についてどう思いますか」みたいな質問を受けると、「私たちには関係ないよ」「それどこじゃない」「それよりもっと大事なことがこのステージで起こっているんだ」みたいな感じです。
1人のおばあちゃんのコメディアンが舞台の上で、月に行く途中、「でも私はボルチモアで下ろしてもらったよ」というジョークがあったりして。この感覚ですよね。
月面にいく人がいて、それをテレビで見て熱狂するアメリカがある一方にハーレムに30万の人が集まってるアメリカがある。世界がまったく違うんです。僕らは、こんなに気候変動とか人類の存続が危ないとか、グロテスクなほど格差が広がり難民が増え続けてるというときに、一方で相変わらず株が空前の高値だとか、AIとバイオでさらに経済成長がどうだとか、デジタルがどうだとか。世界というのはますます別の世界へと分裂していると。
でもこれって、考えてみると、もともとはコロンブスが来て黒人たちが奴隷としてアメリカにやって来たという、そこにまで溯る。つまり、今起こっている現象は、少なくても500年の背景を持っているんだなということを、あの映画見ながら改めて感じていました。

小林:すごく面白そうですね。

辻:ほんとに驚きました。ここにはブラックミュージックのあらゆるジャンルが混ざっている。ジェシー・ジャクソン師がリードして前年に暗殺されたマーティン・ルーサー・キングの追悼をやるかと思うと、ブラックパンサー党が会場の警備をやっていたり。あらゆるジャンルの人たちが舞台に現れるんです。驚きました。

小林:ブルース、ゴスペル。R&B、ファンク。

辻:ええ、スライ&ザ・ファミリーストーン。ジャズで言うと、僕の一番好きなマックス・ローチというドラマーいるんですけど、彼も出てきますし、彼のそのころの奥さんだったアビー・リンカーンも歌っていますし、ほんとに贅沢なんです。

小林:もしカウンターカルチャーとしてとしての黒人音楽がなかったら、今僕がやっているような音楽は存在しなかったし、恐らくビートルズも存在しなかった。溯っていくとそれは、アフリカから奴隷船でアメリカに連れて来られたというとんでもないネガティブに端を発していることで。つまりポジティブの種はいい話ばかりではないんだけれども、ネガティブな中には強いポジティブが生まれる可能性があると常々思っていて。
後ほど赤石さんが語ってくれると思いますけれど、彼女がシングルマザーの方々を支援していくなかで、そのこどもたちが将来の夢として社会の役に立つ仕事がしたいと話してくれることがあるそうです。
もちろん恵まれた環境の中で育っていくことが別に悪いとは思わないけれど、今のこの苦しい状況の中からも何か新しいカウンター的なことも含めた、新しい潮流というかエネルギーが生まれるんじゃないかと思います。僕らのあり方、とらえ方とかで、貧困を根絶するということはできるのかどうか自信はないけれども、僕はすごく楽しみだなと思っていまして。

辻:音楽ネタで、ずれちゃったかもしれませんけど。僕は今日の対談をとても楽しみにしていたんです。伊藤亜紗さんと小林武史さん、お二人とも「利他」という言葉を、今この時代に正面に掲げていらっしゃいますよね。そこをぜひ伺いたいと思っています。

小林:今まさにマイクを向けようとしているときに、いい形でフォローしていただいてありがとうございます(笑)。
そうなんです。僕はずっと「利他」のセンスということを考えていて。役所へ行くと、募金活動かボランティアかどちらの窓口かしか用意していません、みたいな。そういうことじゃない感覚が楽しいし、豊かさをつくっていくキーになり得るんじゃないかと常々思っていたら、ほとんどタイムラグがないところで「利他学」ということをおっしゃる方が出てきた。それで対談でお話しさせてもらったら、人間くさいというか、すごく人間味がある方で。
いわゆる“善意”がないわけではないけれど、そういうこととちょっと違うという想いが僕の着想のスタートにはあったのですが、伊藤さんはどんな感想をお持ちになられていましたか。感想じゃなくてもいいんですが。

伊藤:ハードルが上がった(笑)。Sence of Ritaという言い方がすごく面白いですよね。「利他」って、行動の問題として考えられがちで。募金するとか寄付するという行為の問題としてとらえられがちですけれども、小林さんはsenceとおっしゃっていて。行為ではなくて感覚、状態、beingみたいな部分での利他を考えていらっしゃるのが面白いと思いました。
どこかに、経済的な活動とは違う人間の活動みたいなことを想定していらっしゃるのかなと思うんですけど。それは別に切り離されたものではなくて、もちろん両方とも大事ですけれども。
思い出すのが、日本の明治以前、人間の労働は2つあると言われていて。1つは「稼ぎ」と言われている経済的な活動。でも、それだけではなくて、「務め」というのもあって、稼ぎと務めの両方をやってこそ一端の人間なんだという考え方があったと思います。
「利他」というのは務めのほうで、稼ぎも大事だけど、それだけじゃないというほう。具体的に務めって何かと言うと、自分が属している共同体のために何かするということで。それは人から言われてやるというのではなくて。明治以前だと、そういうものだと思って、みんな当たり前にやっていたことだと思います。地域のお奉りだったり、警察的な活動だったり、当然のこととしてみんなやっていた。
ところが明治以降、日本がどんどん近代化して、コミュニティの中の自分ではなくて、最初に自分があってという「個」というものがどんどん広がっていったときに、稼ぎのほうばかりが増大していって、務め的な部分が当たり前じゃなくなってきたわけです。
言われてやるんじゃない。かつては当然だと思ってやっていたことが、今は自分が意識してやらないと、ないものになってしまう。そういう時代になっていて。そこはすごく難しいと思います。
一方で、「利他」を能動的にやってしまうと、それが人に対して押しつけになってしまう、という問題がある。「あなたはこういうサポートが必要なんですね。じゃあやってあげます」みたいにやると、人をコントロールしてしまうことになって。現在の社会では、意識的に務め的なことをやらないとSense of Ritaがなくなっちゃうということと、一方で能動的な何かをすると、人に強制を働かせてしまう、という引き裂かれたような状況のなかで、どういういい利他的な状態をつくっていくかということが、すごく問題なんだろうなと思っています。

小林:今年もap bank fesで、2005年に作った「to U」という曲をコンセプトに据えたんです。

辻:僕、この曲のファンです。いまだに時々聴いています。

小林:枝廣さんにもフェスの現場で何度も生で聴いていただきましたよね。
2005年のあの頃も、気候変動や温暖化の問題にはもうそんなに時間が残されてないということが盛んに言われていました。田中優さんなどは遅いぐらいだと、相当強いサジェスチョンというか、想いを伝えてくれていたんですけれども。
そんな当時に作った歌詞がこの「今を好きに、もっと好きになれるから、あわてなくていいよ」だったんです。櫻井くんにはどこかあまのじゃく的なところがあるんですよね。その時、僕もすごくいいなと思っていたんですけれども、でも時間がない。今の時代でも「2030年問題」と言われるように時間がない中で、急がなきゃという最中にあって。
ただ、2005年からずっと僕たちが環境問題という未知の扉を開けていくなかで、同じように頑張って続いていく未来をイメージしながらいろんな活動をやっていた若い人たちがいた。でも彼らのその活動もすべてがうまくいくわけではないし、頑張っているんだけどいろいろあって挫折することもある。そんな彼らから”「to U」の歌にすごく助けられた”という話をよく聞いていたんです。
これは、伊藤さんがおっしゃった“コントロールするということとは違う「利他」”というのが、「to U」の中に含まれていたからなんだなと僕は勝手に思っているんです。このことは対談集にも載ってるんですが、「何で書いたの?」と櫻井くんに改めて言ったら、「うーん」と考えていて。「みんな頑張っているって、知っているから」という話だったんです。
ただ、続いていく未来にとってはここからが難しいところだとも思うんです。
グレタ(・トゥーンベリー)さんとか若い世代には、上の世代の人に「何やってんのよ!」という強い想いがある。「石炭・石油燃やしまくって」という気持ちもすごく伝わってくるし、それも重々分かるんです。僕もトランプ前大統領の肩を持つ気はぜんぜんない。
だけど、前の時代の人たちをただ攻撃するというようなことになっても、それで未来が続いていくということにはならないのではないかという思いもありまして。
そのあたりの思いというのを、ap bankでも何がしか反映させながら、それでも次の未来をイメージしていかなきゃなと思っているんですが。
この話、どう思われますか、枝廣さん。

枝廣:私たち、幸せ経済社会研究所というのをつくって、幸せと経済と社会に関する読書会を毎月していて、少し前に伊藤さんの『「利他」とは何か』を課題書で取り上げさせていただいたので、今日はお話しできるのを楽しみにしていました。
そのずっと前から小林さんがRitaということをおっしゃっていて。今思うのは、突拍子もないかも分からないけど、今の小林さんのお話も含めて、利他のセンスって、もしかしたら本能なのかなと思っています。
このあいだ、生物学者の五箇さんという方と話をしていて、人というのは裸の猿で、足も速くないし力も弱いし、普通なら淘汰されるような種だけど、それが生き残ってきたのは、集団で活動する、協力するということができるから。それではじめて生き残っていると。
ほんとにそうだと思っていて。そうしたときに、集団として連携して、協力してはじめて生き残れる種であるとしたら、自分以外の人も生きてもらわないと困るわけで。それは、もしかしたら本能なのかなと最近思うようになっています。
熱海の発災後に、全国からいろいろな支援の声とか思いとかをいただいていて、それはかわいそうだからというよりも、もちろん、悲惨な映像が流れたというのはあるんですけど。身を寄せるという形、対岸から手を出すというよりも、身を寄せるようなそういうのも感じているし、若い人たちにもそれを感じています。
私自身のライフテーマが、「つながりを取り戻す」ということです。カウンセリングをやっていたころから、ずっとそれをやっているんです。自分とのつながり、人とのつながり、自然や地球とのつながり。これが切れてしまったから、今いろいろな問題が起こっている。それをもう1回取り戻すというときに、「利他」というのが大きなキーワードなんだろうなと思っています。
もうすでに起こっていると思うんですけど、これからいろんな形でそちらの方向に行くと思う。あまりにも利他とか協力とか連携とか、分断してきてしまって、目先の経済的な合理性だけで動いてきてしまった。それの悪影響を目の当たりにして、揺り戻しが起こるんじゃないかなと。半ば期待も込めて、今、そんなふうに思っています。

辻:今、「本能」と言われましたよね。人間の「本性」と言ってもいいのかもしれない。「利他」という言葉の面白いところは、小林さんも伊藤さんも、使いづらい言葉だなという違和感を、感じながら使っているところですよね。
伊藤亜紗さんはご著書の中で、得意な言葉じゃないのをあえて取り上げたと書かれていました。小林さんも、それを横文字にして「Sense of Rita」と言っているところが、いかにも違和感が表現されている。僕は、逆に素敵だなと思っているんです。その違和感が何なのかが鍵じゃないかと思っています。
「利他」と漢字で書くと、利益の利だし、他人・他者の他。どちらも重い言葉ですよね。そして、「他者」と言うからには「自己」があるわけです。「利他」のこっち側には「利己」が中心にあって、それを補うものとして「利他」が出てくる。二元論が前提になっています。それが僕らが感じる違和感であり、この言葉の使いづらさだったんじゃないか。そこに入っていくことがとても大事だと思います。
さっきの「to U」の歌詞、今見るとほんとにすごいなと思います。「あわてなくていいんだ」「がんばらなくていいんだ」というのは、まさに、あわててがんばってきたから、世界は今こうなっている。つまり、僕らが頑張ってきたことは、今を犠牲にすることだったわけです。今が、いつの間にか嫌いになっている自分。そういうものに対する違和感を表現しているんだと思います。
今評判の斎藤幸平さんの本を読むと、最後のほうの1章に何十回も「スローダウン」、「減速」という言葉が出てくるんです。これはすごく面白いことだと思っています。時間がない、グズグズしていられないということ自体が、よく理解できればできるほど、それに対してやるべきことは減速しかない、スローダウンしかないと。思い切って覚悟を決めてスローダウンするところに、僕らは立ち至っている。それは、「利他」という言葉で僕らが表現しようとしてきた以前の世界を、もう一度取り戻すことのような気がします。「利」という言葉自体が成り立つ以前の世界とか、自分と他者とが成り立つ以前の世界みたいな、そういう大元に僕らが帰れるかどうか。

小林:伊藤さん、どうですか。

伊藤:時間の問題はすごく大事だと思います。さっきの行為としての利他、人に何かしてあげようみたいな利他は、基本先回りなんです。「こういうことをしたら、この人はハッピーじゃないか」と、自分である種勝手に決めつけて、先回りしてそれをやっていくという形ですけれども。でも、大事なのはそうじゃないと思います。時間を先取りするんじゃなくて、過去に溯るような利他が大事じゃないかと思っていて。
「利他」って、そもそも人に受け取られたときに、出来事として成立するものだと思います。いくら先回りで「こういうことをしよう」「ああいうことをしよう」とやったとしても、それは「利己」にしかならなくて。それが誰かに受け取られてはじめて「利他」になると思います。
そういうふうに考えていくと、私は大学の教員なので、授業で何かこういう話をしたと。それが3年後に学生から「3年前に先生がこういうことを言ったのが、自分の人生を変えました」とか言われたりするんです。私はそんなつもりで言っていないんだけど、その学生が勝手に受け取ってくれて、私を利他的な存在にしてくれたということがあって。
受け取られることによって、自分の過去に引き戻されるし、同時に自分が過去に発した言葉の意味をその学生が変えてくれたわけです。そのことによって、自分が気づいていなかった可能性が見えてくる。
小林さんみたいに楽曲を発表されている方は、もっとそうだと思います。発表した時には気づかなかった、歌詞が持っている深みみたいなものが、受け取られることによって見えるということを、たくさん経験されているんじゃないかと思っていて。
そういうふうに「利他」って、先回りより、どんどん過去に帰っていくことで、現在の深みが増していくような働きじゃないかと思っていて。そういう意味で、スローダウンとはちょっと違うかもしれませんが、いつも逆算で生きていくような時間感覚じゃない時間をつくってくれるような気がします。

小林:おっしゃる通りですね。
僕らがap bankをつくるきっかけにはまずニューヨークでの同時多発テロがあって。もちろんその前からいろんな問題意識を持ちながら、アメリカでスタジオを作って音楽活動もやっていた時代があるんですけど。このあいだちょうどあれから20年が経って、いろいろ変わってきたと思うところもありますね。
ただ、結局アフガニスタンはタリバン政権になって。タリバン的なイスラムの宗教観って、硬いというか、厳しすぎる教えとして捉えるというような見方が出てきている。20年たっても相変わらず、人間の幸せとか豊かさということを考えている中で、相容れないような価値観も存在しているんだなというのも思うわけです。
そういったことも含めて、これから続いていく未来を考えたときに、「利他」のあり方として、どういう道筋をつくっていくのがいいんだろうかと考えているんですけれども。
そのなかで僕は一貫して“場をつくる”ということをずっとやってきているんだなと思っていて。フェスをつくることもそうだし、Bank Bandもそうですけれども。震災があって、福島の事故が併発しているのに対して、また強い経済に依存するというだけの復興ではないものとして、現代アートなどを用いてReborn-Art Festivalをつくったり。今回フェスの会場にもなるKURKKU FIELDSというのも、太陽光からのつながりと微生物の働きを経て命をリレーしている“場”です。そしてそれを僕らが食べるということでまた命としてリレーさせていく。そのようなことが体験/実感ができる“場”というのをつくったわけです。
そこには、経済の合理性だけでは全然測れないようなことをたくさん感じていて。もちろん経済も重要な側面はいっぱいあるんだけれど。そういうことを僕はこれまでやってきたつもりなんですが。
一方で皆さんは“次の一手”としてはどんなことを思われているかなと。

枝廣:お話を聞いていて幾つか。伊藤さんの「利他的な存在にしてくれる」というのは、すごくいいなと思っています。利他的であろうというよりも、それを受け取ってくれる人がいてはじめて、自分は利他的な存在にしてもらったんだという。そういうスタンスはすごく大事だなと。
経済というときに、私たちは貨幣経済のことしか考えていないけれど、経済には3つあって。貨幣経済のほかに、自給経済、おすそ分け経済。貨幣経済の中では、利他というのは要素として入りにくいけれど、自給経済とか、おすそ分け経済というのは、利他の要素が入ってくる。もしくは、それがベースになって回っている経済というのもある。なので、経済というとき、貨幣経済のもたらす弊害というのがあるかなと。
先ほど小林さんがおっしゃった「場をつくる」というのはすごく大事で。その中で、つながりとか、リレーすることを体感したり、自分がそこに参画できることは、私もとても大事だと思っています。
ちょっとだけ熱海の話をさせてもらうと、この秋に「ブルーカーボン・ネットワーク」というのを、熱海から立ち上げようと思っています。ブルーカーボンというのは、植林のようなグリーンカーボンに対して、海の中の生態系でCO2を吸収するもの。藻場の再生です。海藻の再生。それを熱海でも始めているんです。藻場を再生することで、海の豊かさを取戻す。今、熱海は、藻場がなくなって大変な状況ですけど、地場産業である漁業も支えるし、そのプロセスにいろんな人たちにかかわってもらったり、子どもたちに見てもらう。
それは、自分たちがやろうとしていることが、漁師さんだけではなくて、海のお魚とか、次世代とか、地球の向こう側の人とか、いろんなとこにつながっているという。
おっしゃるように、その取り組み自体で経済的な合理性、貨幣経済的な合理性は生まれないんですけど、それをやることで、感じてもらうこと。参画することで、自分たちもこういうことができるんじゃないかとか、そういうことはいっぱい出てくるのかと。
先ほど、辻さんがおっしゃった減速、スローダウンについて、私はずっとシステム思考というのをやっているんですけど、ドネラ・メドウズさんという、『世界がもし100人の村だったら』というエッセイで有名なシステム思考の第一人者ですが、その人が教えてくれたことがあります。
例えば貧困とか環境問題とか、いろいろな問題があって、どうしようと、世界の人たちが集まって考えた時に、みんな正しい答えにたどり着いたと。それは、変えるためのレバレッジは経済成長だということです。ところがそれを、みんな逆に押しちゃった。もっと経済成長すればいろいろな問題は解決できる、と。でも、本当にやるべきことは、経済成長を減速させることだった。レバレッジを見つけたけど、逆に押しちゃったので、問題はさらに悪化しているというのがあって。
なので、スローダウンとか、時間との付き合い方とか。スローダウンすると周りが見えてくるし、感じる余裕もあるし、伝える余裕も出てくる。
利他のあり方を考えるときに、つながりと時間というのがすごく鍵。あとは、それを体感したり参画できるような、小林さんがおっしゃるような場づくり。それはすごく大事だなと思って聞いていました。

小林:経済成長という看板にハリボテ感があるというのは、もう気づいている人もたくさんいるとは思うんだけれども、それをやめられないスパイラルというか、やめるためのきっかけがないというか。そんな状況のなかでは、是が非でもスローダウンしなきゃということでもないだろうという気がするんです。もちろん脱成長ということは斎藤幸平くんとか辻さんも含め、前からずっとおっしゃっていることだというのはわかっているんですが。
今は総裁選で岸田さんが言うくらい、経済成長と分配ということの両立みたいなことが与党の口から出てくるようにはなっていると思うんだけど、でも実際のところは経済成長と言わないで、そこに重きを置かないでは、まったく国民にだってそこは通用してこなかったじゃないですか。

辻:あえて言わせもらうんだけど、結論としては、利他の先へ行くことだと思うんです。伊藤亜紗さんたちがマイケル・サンデルさんを呼んだセッションがあって、とても面白かった。サンデルさんに利他や利他学について英語で説明をするんですが、彼はそれを聞いていてすぐ分かるんです。「そうか」と。利他というのは、英語で言えばaltruismだけど、「利他主義とaltruismは違うね」と彼は言うわけ。「英語で言うと、自分と他者が両方あって成り立つ言葉だけど、利他という言葉は、そこが溶けちゃっているね」と言う。小林武史さんが英語で「Rita」と書いている、あの感覚ですよね。サンデルさんは、図らずも、「利他」という日本語の持っている重さの先にいるんだと思うんです。
さっきも言いましたが、「利他」の「利」。これこそが大問題だったわけでしょう。「利」が世界のすべての土台だと、僕たちはいつの間にか考えてきた。これは西洋的で近代的な思考、一言で言えば「功利主義」ですよね。今の社会も、さっき自民党の話が出てきたけど、全部、功利主義の世界で皆さん話をしているわけです。
僕らが今こそ言わなければいけないのは、だからこうなっちゃったんだと。その先へ行かなきゃいけないということだと思います。そして「利」というものを巡って、自分と他者が分断されてきた。自分を利するだけだと後ろめたいから、他者もたまには利するようにしよう、みたいな。そういう悩ましい分裂の中に、僕たちはずっと生きてきたんだと思います。その意味では、「利」そのものを超えていけるかどうかが問われている。
じゃあ、希望はどこにあるかと言うと、人類の歴史を見ればちゃんとあるんです。いつの間にか僕たちは性悪説というか、人間はもともと功利的で、貪欲で、狡かつで、競争的で、暴力的でという、そういう性悪説的なイメージを、西洋近代の中で完全に身につけてしまっている。
でも、例えば僕の専門の人類学なんかで言えば、ほとんどの場合、人類学の大半の人たちは、世界中の奥地なんかに出掛けて行って、みんな、「なんでこの人たち、みんないい人たちなんだろう」とびっくりしているわけです。多くの人たちが、「こんな幸せな世界があるんだ」みたいなことを、世界中から報告してきたわけです。
一体これは何なのかと言うと、多くの社会で今分かっているのは、「利」ということで生きてこなかったということです。そして、自分と他者なんていう区別のないような、それ以前の世界に人々は何百年、何千年、何万年と、どうやら生きてきたらしいと。
そう考えれば、僕らの中には、個々人の一人ひとりの中には、ちゃんと利を超える世界があるんだと。というわけで、僕は「現代版性善説」と言うんでしょうか、それを一つのムーブメントにしていかなくちゃいけないんじゃないかなと思っています。

小林:音楽自体がそういうものだと思います。自分の個のアピールのために音楽が存在しているわけではないんです。最初は、自分が世に出てちゃんと生きていくために、みたいなことは思うんだけれども、音楽自体はそういうために存在しているんじゃないということはやっていればいつか気付かされていくし。
ap bankの活動も最初は音楽は含まれてなかったんです。僕らは真剣に環境のことを考えてスタートしたのだから音楽は必要ないだろうと。でもあるところから音楽を使ってもいい、いや使おうよ、ということになった。それはap bankでの音楽が売名行為でも何でもない、利他的なものだとはっきりと言えたからです。
お金もひとつの道具だから、ものごとの価値や在り方をいろんな角度から見ていくと、ap bankはお金が良い方向に回っていくことのトリガーみたいな装置として機能したほうがいいんだと思った。するとそうやって回りだすんですよね。
その代わり、音源を買ってくださる、フェスを観にきてくださる人たちのお金に対しての思いや、責任ということは感じないといけない。それはお金をいい形での場づくりに使っていくということにおいて、ですけど。

辻:小林さん、よく言われるんじゃない?「いいことしてるね」って。

小林:言われるんです。

辻:そういうとき、何て言うの?

小林:Reborn-Art Festivalで東北に足を運んだ際などでも、報道番組の取材で「良いことを続けていられる秘訣」じゃないけど、そのようなことを質問されることがあるんです。まるで僕がさも善意の塊みたいに捉えられるようなこともあったりするんですが、そんな感覚は僕にはほんとにないので。むしろ、そこでさまざまな人やものごとに出会わせてもらっていて、それには続きがあってそれがすごく興味深いので、大変なことはいろいろあるんですけどやっているというだけです。どこかに勝ち組の”勝てば官軍”パーティみたいなものがあるとして、そこに行ってへらへらしている自分よりもそれは100倍も興味深いことなんです。こちらこそ、ありがたいなと思わせてもらうことがたくさん出てきたので。
それも、ap bankという装置というか、場をつくって、あとは勝手に巡り巡って、こっち側にまた帰ってきたわ、楽しい思いが、みたいなことではあるんです。
今回のBank Bandのアルバムを出すにあたっても、本当にそういう思いでした。お金は僕も櫻井くんも財布には1円も入ってこないんですけど、だけど全然、もっと喜びがある。

一方で、経済的な利を社会は今も求めているじゃないですか。それに対しては伊藤さんはどう思われてますか。

伊藤:難しいですね。自分の外側を見ると、すごいシステムが出来上がっていて。自分はそのシステムをキープするメンテナンス要員みたいな人生を、うっかりすると送らせられそうになってしまう。それくらい複雑なシステムが、特に日本みたいな国は完成されているわけです。そこにはまっている限りは、利他は生まれてきにくいんだと思います。
だからといって、そのシステムを壊せばいいとか、別のとこに行けばいいというのも違うと思っていて。そんなに対立するものじゃないのかなと。
つまり、外側を向いているとすごいシステムが見えるけど、自分の内側を見ていくと、さっきの性善説とは違うかもしれませんけれども、自分の中にさまざまな顔が見えるというか。自分という中に他者がいて、個が完結していないと気づくと思うんです。
たとえば、もう亡くなった人。自分の中に亡くなったあの人がいて、その人と対話したり問いかけながら生きていく、ということは多くの人がやっているのではないかと思います。
福岡で「よりあい」という宅老所を運営されている村瀨隆生さんと往復書簡をしています。村瀨さんのお仕事は完全に国の行政の仕組みの中で、システムの中で運営しなきゃいけない経済的な活動なんだけれども、でもその中にもさまざまな利他的な関係があって。
例えば、前にその施設に旦那さんが入所されていたおばあさんが、旦那さんは亡くなっているんだけど、ずっとその施設に顔を出していて、いつもヨーグルトを作って持ってきてくれるらしいんです。なぜそんなことをするんですかと言うと、表面的には施設の方たちの健康のためにという、善意に見えるんだけれども、実際はそうではなくて。死んだおじいちゃんに顔向けできないとか、おじいちゃんのためにやっているみたいなところがあって。その施設の人はみんな、おじいちゃんのことを知っているし、みんなの心の中におじいちゃんが存在するわけです。おじいちゃんを介して、みんながつながっていて。誰のためにということが分からないような、senseとして利他が存在するような場になっていて。
経済的な活動として回っている施設であっても、そういうことは起こるし、はみ出していく部分というのがあって。いかにそういうはみ出しを可能にするかということのほうが、われわれが分裂しないで生きていけるというか。仕事は仕事をし、でも魂は別の活動で、みたいな分裂ではなくて、仕事の中にいい余白を持つというか。そういう場所を見つけていくということをやっていきたいと思っています。

小林:すごく共感します。
別のところに行くというのは、果たしてそんなところがあるかという問題があるんだけれど、はみ出すことはできるんですよね。入れ物の中にピッタリ収まらなくちゃいけないということはなくて。むしろはみ出しているなかで仲間みたいなことが生まれてくると思うし。そういうなかからこれまでも新しいカウンターカルチャーみたいなものも生まれてきたんだと思うので。
このあいだパラリンピック終わりました。いろんな考えはあると思いますけど、僕はあれを観ていて、人間の命の豊かさとか喜びみたいなものを教えてもらったなという感じがしたんです。僕だけじゃなく、ほんとにたくさんの人がそれを感じることができたんじゃないかと思います。“場”として、ひとつの扉が開いていったんじゃないかと思います。
最初にも言ったような格差の問題から出てくる貧困のこと、そこのスパイラルから抜け出せないというようなこと。これはパラリンピックと一緒にすることじゃないかもしれないけれども、こういったことに関して僕らが続いていく未来のことを思うときって、それは欲望がどんどん肥大していって身動き取れなくなっていくような感覚よりも、自分の中でバランスが悪くて弱いところが感じられることも含めて“等身大”みたいな感覚だということが、循環して命として紡いでいける理由なんだなという思いが僕には常々あるので。
ここで、赤石さんが入られましたね。

赤石:皆さん、よろしくお願いします。

小林:僕と赤石さんは、もう2回ほど話をさせてもらっています。「spoonプロジェクト」では、単純にお金を食に変換してそれを届けるということだけではなくて、ちょっと近づかせてもらって身を寄せさせてもらうことからはじめて、こちら側からも、例えばKURKKU FIELDSがやっている命の循環から生まれる豊かさなどを伝えていくこととかができればなと思っています。
では赤石さんからまず「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」のご説明をいただいてもよいでしょうか。

赤石:はい、しんぐるまざあず・ふぉーらむという、シングルマザーと子どもたちを応援しているNPOの赤石です。文化とかアートとか文明みたいな話に、支援の話がうまくかみ合うといいなと思っております。
コロナ禍で私たちがどんな支援をしていったか。私たちは、シングルマザーと子どもたちが生き生き暮らせる社会を実現したいなと思って、当事者が中心の団体ですけれども。私自身もシングルマザーで、子どもは大きくなっていますけれども、活動してまいりました。最初は、ほかに仕事を抱えながらやっていたんですけれども、今は専従スタッフです。就労支援事業から相談事業等々をやっております。
コロナの時にすごく食料支援が拡大したんですけれども、コロナの時期の緊急支援活動を少しご説明します。
相談活動などをやっておりましたら、お米を1回、何百世帯かにお送りしたんです。ご希望者に。そうしたらお子さんが、「お母さん、今日はお米が来たから雑炊じゃなくていいよね」と、3月の時点で感想が来て。一斉休校になったらすぐ、食べるものが少ないので、お米をちょっとずつ使うために雑炊になっていたんだなというのが分かって、とてもびっくりいたしました。
それから、食料支援しないと難しいんだなということが分かったので、やっております。
そのほか、調査活動とか政策提言活動とか、ほかの団体と一緒にやるので、ほかの団体の支援もやっております。
食料支援を受けた時に、お母さんが子どもたちの写真を送ってくださっているので、個人情報に配慮しながら、皆さんに写真をお見せしながらお話しします。
今までに3万5,000世帯。今もお届けしているので4万世帯ぐらいに、「だいじょうぶだよ」という安心とともに、お米やお肉、野菜、お菓子をお届けしました。
東の食の会さんからご紹介を受けて、東北の生産者さんの冷凍のお肉や冷凍のブロッコリーなど、学校給食がなくなった時期に売れなかったものを、こちらで購入させていただいて送ったんですけれども、無農薬とか丁寧に育てられて、おいしいものだったので、「お肉が甘くておいしかった」とか、「ブロッコリーなんかあまり食べない子がパクパク食べた」とか、感想をたくさんいただきました。
こちらは、クリスマスの時にお菓子セットを送って、子どもたちが喜んで跳びはねている様子です。
数が増えて2000世帯以上にお送りするようになり、事務所で梱包することができなくなりましたので、運送会社さんに物資を入れて、梱包していただいて、住所リストを渡して送らせていただいています。もちろん、DV被害とか、個人情報のことがありますので、ちゃんと扱ってくださるようにお願いしてお送りさせていただいています。
東北の生産者さんから、その後も冷凍の野菜やお肉を送っていただいているんですけれども、ありがたいことに頑張って送っていただいています。
平時の不利にコロナの不利が重なったと言っているんですけれども、平常時でも非正規で賃金が安かったり、子育てを1人で担っていることで、時間もお金もない。それから十分な社会保障もないということで、外からみると「そんなことが起こっていたのか」ということが起こっていました。
1800世帯に調査をしたときに、約7割の方が、コロナで就労生活に影響を受けたと言っています。特に飲食、サービス業などで時短や非正規で仕事が減少するというようなことや、自主休業せざるを得ないということで大変なことが起こっていました。
日本のひとり親の方、特にシングルマザーは、就業率は世界的に見ても1番目か2番目に高いです。80%は越えています。他の各国は60%か70%です。にもかかわらず年間の就労収入は非常に低いという特徴があります。養育費もなかなか取り決められていない。
コロナでなぜ収入が減少したかというと非正規で休業保障がないあるいは取りづらい、一斉休校の時は学校給食がないということが原因でありました。私たちのところには「明日食べるものがないんですけれど、もう一家心中しかないんじゃないんでしょうか」みたいなご相談が、凄まじい勢いで来て、、、、なんか、、、、静かな野戦病院って言ってたんですけれど、、、。で、政府がつくった緊急小口資金の特例貸付のご案内をして、生活保護も場合により、そういうご案内をしながら、莫大な相談を対応していました。
毎月、調査をしていましたが、お米が買えなかった方がどれぐらいいたかというと、東京は3割いて、東京以外は4割ぐらいの世帯はお米が買えなかったことがあった、ということです。お米買えないと、小麦粉を買ってお好み焼き的なこと、薄いお好み焼きを作ってお子さんと一緒に食べていた。肉や野菜は半数近くの方が買えなかったことがあったといっています。また「前月にお子さんのことで気になったことがありましたか」と毎月聞いているんですけれど、小学生の子どもの体重が減ったのが心配だと答えている方が10%前後でいらして、特に夏休みの時は多くてですね。また2月、3月に増えていました。体重が減るということは小学生にとってはものすごく大変なことです。今年に入り、学校保健統計でも、コロナ禍で痩せと肥満と両方が増えたというふうに出てきております。
子どもたちは、学習についていけないとか、学校に来たがらなくなったというような影響も出てきています。
コロナの後、経済は回復してきたんですけれども、どんな経済的ダメージの時にも、不利な方のほうにダメージが長引いていまして、今も収入が減少したままの方が多いという状況があります。預貯金なども減っている状況です。給付金などもあるんですけれども、生活費に使っています。
デジタル化が進んでいるんですけれども、3割ぐらいの方はPCがないと答えており、3割ぐらいの方が通信料を気にしない接続が無いと答えています。
私どもは、食料支援をしながら、皆さんとコミュニケーションを取りつつ、ITスキル支援のスクールもやっております。
すごく雑な報告ですが。しかも、いつも途中で泣かないようにしようと思っているんですけれども、準備が足りなくて申し訳ありませんでした。

小林:赤石さんとは僕もまだZOOM会議だけで直接お会いしたことはないんですけれど、それでもすごく気持ちを入れられて、身を寄せて活動されてるというのはすごく伝わってきています。
哲学者の國分功一郎さんが“中動態”ということを以前から言われていますよね。僕もそんなに詳しいわけではなくて、「利他学会議」に呼んでいただいたときに知ったんですが。能動と受動ということで社会は色分けされているけれど、その間にある能動にも受動にも明確に分けられない領域とでもいうのでしょうか。
本来、こういった“中動態”的なことって生き物としてあたりまえに存在するものだと思うけれども、現代社会ではそれを一気に飛び越えて「自己責任でしょ」ということがすごくはびこっている気がするんです。ただ誠実に生きているだけなのに、経済の流れから踏み外したりすると、どうやって這い上がっていいのかわからないというようなことが起こったり。
これから生きていく若い人たちにもそれは恐怖心に近いようなプレッシャーを与えているんじゃないかという気がしています。そういうことと「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」の活動は密接につながっているなというふうにも思っています。
こういった昨今の自己責任論については伊藤さんどう思われていますか。

伊藤:おっしゃったように、赤石さんが身を寄せていらっしゃるということがすごく伝わってきて。自己責任という考え方に一番欠けているのは、自分もそうなっていたかもしれないという視点だと思います。偶然たまたまこの人は今貧困で苦しんでいて、自分はたまたまそうではないという。偶然そうなっているだけであって、決してその人のせいではないわけです。
そこの偶然性がなくなってしまうと、特定の人を責めてしまう。逆に身を置くという立場は、人の入れ替え可能性というんですか、この人は私でもあるという感覚なんだろうと思います。
お話を伺っていて、質問してみたいなと思ったのは、赤石さんは、コロナ禍で、食料を困っている方にお送りするという支援をされていると思いますが、多分、送っているのは食べ物じゃないんじゃないかと思うんです。食べ物を通して、何か違うものを送っていらっしゃるんじゃないかと思っていて。
社会の中で暗黙のうちに「食べ物さえあればいいな」みたいな見方があると思います。例えば女性で生活が苦しい人が、生きていくために「自分の手にマニキュアを塗りたい」と言ったとします。「マニキュアといのは贅沢品で、おまえのような貧乏人がすることじゃない」みたいな言い方があると思うんです。
でもそれは違うと思っていて。生きていくために必要なものは、人によって違うし、生理的な欲求がベースにあって、その上に社会的な欲求とか自己承認欲求があって、みたいな話ではないと思います。生活が大変、生理的な欲求が満たされなくても、人は承認されたいと思うし、自分が承認される欲求は、贅沢なものじゃないと思うんです。そこが分断につながっているような気がしていて。生活に苦しい人に食料を届けつつ、でもその人にとって必要な食べ物以外の部分もサポートされているんじゃないかと思って。そのあたりを伺いたいと思いました。

赤石:世の中から忘れられているというか、誰も助けてくれないんだというほうに確信を持ってしまっていらっしゃる方が多くて。食品をお送りしながら、世の中でもあなたを気にしている人がいるんだよ、みたいな。そういうことをお伝えしていると思いますので。そういうことを通じて、「自分ももう少し元気に何とかやってみようかな」みたいな気持ちになります、みたいな感想は届きます。
もう1つ、マニキュアの話があったので。コスメをご寄付いただくことがあるので、コスメをお送りする。コスメをお送りすると、お母さんの反応は、子どもを中心に何とか生きていかないといけないと思っていて、自分は犠牲にならなきゃいけないと思っているんですけど。お母さんもきれいで元気にいてほしいんだよというメッセージになるので。お母さんも、あなたのことをケアしていいよ、自分のことを大切にしていいよというメッセージになっているのかなと。そういうことを感じ取って、いろんな反応が来たり。また、お母さんが笑顔であることは、子どももうれしいということも。
日々の暮らしが過酷なので、食品だけで自己尊重感がアップするって、なかなか、日々ダウンしていくのを、月1回でやっと戻っていくという感じですけれども。でも、その先に何か自分で探して、方策を考えてみよう、みたいな力を伝えているような感じはします。

伊藤:人のケアってすごく大事ですよね。お母さんが、自分もケアされていると思えることは、すごく重要で。人は大変なときほど、ケアされる人のほうばかり見るけど、ケアする人をエンパワーしないと、ケアされる人もエンパワーされなくて。そこにかかわっていらっしゃるんだなと実感しました。
震災の時にも、たまたま知り合ったファッションデザイナーの方が、「自分はファッションなんてやっていて、震災のときに全然役立てないんじゃないかと思いつつ、被災地に行ったら、避難されている方がファッション誌を読みたいと言ってくれた」と言っていて。
一見贅沢に見えることだけれども、そういうものこそ人が必要としているということがあって。お話を伺ってそのことを思い出しました。

小林:枝廣さん、辻さんは赤石さんの活動をどう思われましたか。

枝廣:同じように活動されているキッズドアさん、ずっと支援したり、理事長の渡辺さんとつながっているので、ほんとに厳しい状況とか、垣間見てます。水際作戦じゃないけど、最後のところを一生懸命持ちこたえるのを手伝っている。それが伝わってきました。
手を離したらこぼれていくかもしれない人たちを支えつつ、でも、そういう人たちがどんどん増えてきてしまっている現状、構造の問題をどういうふうに変えていくか。いろいろな給付金とか、当面の政策とかもあるし、貧困の拡大とか格差の拡大とかをつくり出している、さっきの経済の問題に戻るかもしれませんけど、そういった構造の問題に、どういうふうに取り組んでいくかということだと思います。
そういったときに、赤石さん、小林さんに対しての質問になるかと思いますが、spoonプロジェクトで、spoonでつなぐものは何なのか。Webを見ていたら、五十嵐シェフが今、熱海でもお店をつくっておられて、またつながりそうなので、つながりがあるなと思って見ていたんですけど、栄養がある、滋味あふれるおいしいスープを届けるというのがspoonプロジェクトだと思うんです。
小林さんがおっしゃったように、ap bankのアルバムとかap bank fesの収益をそこへ持っていくということは、そこへ参加した、アルバムを買ったりap bank fesを観ている人たちが、収益の行き先に対する眼差しをそこへ向けることができる。向ける先と、それを見た人たちがどういうふうに変わっていってくれるか、これまで見えなかった何を見てくれるか。すぐに構造的な問題は解決されないと思うんですけど、現状と構造を1人でも多くの人が知っていくことと、自分のかかわれる部分があるということを感じること。
一緒にやっていかれるspoonプロジェクトというのが、単に栄養を届けるだけじゃない、どういうことをこれからやっていかれるのかなということを、また後でお話いただけるかも分かりませんが、知りたいなと思って聞いていました。

辻:赤石さんが使われた言葉の中に、「気にしているよ」「気に掛けているよ」というのがありましたよね。伊藤さんもその後使われていた「ケア」という言葉。ケアという言葉は、日本ではケアワーカーとか、介護とか、非常に狭い分野で使われてしまっています。でも英語の世界では、ケアというのはとても大事な言葉というか、広い言葉です。“I care you.”と言うと、「気にしているよ」「気に掛けているよ」「思っているよ」という、根源的な、人と人とのつながりを表す言葉です。
逆に一番残酷なのが、“I don't care.”と言い放つこと。「関係ねぇよ」と他者を切り捨てる、断絶の言葉です。その意味では、先ほどから話に出ている人間の本性に当たるものは、ケアじゃないかと思っています。利他の先は多分ケアだと思う。
最近、僕は「3エア」を広めていて、それは「ケア」「シェア」「フェア」。3つとも英語の世界では重要なキーワードたちです。ケアとシェアとフェアの感覚で、人類はここまで来たと思っているんです。
一方で、豊かさをつくり出すということで、この数百年間、日本などでも近年やってきたことは何だったか。赤石さんが言われていた、あれこそが僕たちが成し遂げたことですよね。豊かな社会に残念ながら失敗している部分があるということではなくて、僕らが目指してきた豊かな世界が、構造的に生み出したものだと思うんです。その中で、赤石さんたちがやられていることは、まったくそれとは違う原理です。小さなコミュニティを草の根でつくっていく。上からのいろんなものを待つんじゃなくて、実際に「気にしているよ」とつながっていく。お話を伺っていて、そういうコミュニティづくりが始まっているんだなという気がしました。
気候変動をはじめ貧困の問題も、構造的に根っこは1つだと思います。そういう意味では、コロナで一層深刻な状況が進んでいますけれども、一方で、世界中でケア、“I care”という動きが広がっていると思います。今までの豊かさとまったく変わるような社会に向けて、もうすでに世界が動いている。赤石さんたちの活動も、まさにその一環なんだなと。僕もそういうものにぜひつながっていきたいなと思っています。

小林:これはもう、今日の話の大団円みたいなところに行けたかなという感じがしましたね。
根っこの問題で全部つながっているとは思っていましたが、ケア・シェア・フェアというのは、3つあってこそ大事な姿勢だということですね。素晴らしいと思います。赤石さんがおっしゃった、涙を流されるほどの危機感みたいなものは、ある種の緊急性みたいなことも含めて赤石さんが身を寄せられているから感じられていることだと感じます。
僕らも災害復興支援に行っていた時期があって、その際もかわいそうに思って善意で手を差し伸べるということじゃなくて、辻さんが言ったように、あくまでもつながりの中でということがありました。でも、そこはあらためてこれから気を引き締めて学ばせてもらいたいとも思います。
さきほど枝廣さんから、僕らがこれからどういう形で「spoonプロジェクト」を展開していくのかということだったんですけど、それに関して最後に僕からちょっとだけ。
たしかあれは伊藤亜紗さんが朝日新聞の「ドライブ・マイ・カー」という映画のクロスレビューでしゃべられたことだったのかな。僕が普段音楽をやっていて、バンドのプロデュースをやったりするなかで「それってバンドとすごく近いな、共通しているな」と思った話があったんです。
僕はKURKKU FIELDSのスタッフなどと話す中でも、「これは “バンド”と思ったほうがいいんじゃないか」と言っていて。それが“会社”になると、会社としてのホスピタリティみたいなことがいっぱい出てきくるんですよね。「いろいろ悩んでいるみたいだけど」と、真正面から向き合ったりすることが駄目だということではないんですけれども、それをコントロールするというようなことではなくて、ちょっとだけ重なるような、斜めくらいの立ち位置のものがいろいろあって成立するというか。僕が思う“バンド”感というのは、言うとすればそういうものなんですね。
このあいだ、ローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツという名ドラマーが亡くなりましたね。彼らがこれまでどんなミーティングをしてきたか詳しくは知らないけれど、あくまでイメージですけれども、キース・リチャーズとミック・ジャガーが面と向かって会議をしてきたというふうには僕は思えないんです(笑)。
それぞれの思い、未来に向けた素敵なイメージだとか、豊かな何かワクワクできるものがあって。ローリング・ストーンズの場合、ローリング・ストーンズという活動の“場”ですけれども、いま揚げたのはその“場”に対するイメージなわけです。それをメンバーが“場”に持ち寄っていく。伊藤さんがその記事で言っていたけれど、そこではひとりひとりの個人のことって、自分の中にはあるけれどというくらいなんですよね。であれば、突き詰めて他者のことを「あなたはこうでしょ」ということを言い切れないだろうと。バンドのコミュニケーションってそういうものなんですよね。
今回の「spoonプロジェクト」でも、その伝えていき方、響かせていき方、そしてこれから続いていく次の未来に対してイメージを共有していくのに必要なのはそういう「バンド感」ではないかと感じています。
そこでネガからポジになっていくいろいろなことを想像できることはたくさんあるし、力を感じられることはたくさんある。そういうことが、生きていることの実感になっていく姿が、実際たくさんの人の中に可能性として存在していると思うんです。
例えば、僕らが「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」の方々を介して、そういうお母さんや子どもたちと出会っていける。そして社会の中で自己責任論などでプレッシャーを受けているような人たちにも出会って、そこで何かを響かせていける。それは今日のこの対談もそのひとつかもしれない。それはカロリーと豊かさを持った食を通してということかもしれないし、いろんなことが起こり得るとは思っています。
僕はKURKKU FIELDSに来てくださる方々には「さまよってほしい」といつも言っているんですけれど、「さまよう」というのは何にどう出会うかはわからないということでもあります。ただ、そこでいろんなものと出会える場として解放していきたいという思いはすごくあります。この「spoonプロジェクト」でも、そういった出会える場づくりをやっていきたいと思っています。
では最後に4人の方々からそれぞれ言葉をいただくみたいなことでいいでしょうか。

伊藤:バンド感、すごく大事だなと思っていて。われわれのセンターも、すべてを支えている事務スタッフの方がバンドをやっていらして。ドラマーですけれども。いつも打ってくれている感じがするんです。いつもそこにいるという感じ。離れているんだけど、いつもいる。それは本当にケアだと思うんです。常にお互いをケアしている、「気に掛けているよ」というところだけがあって。でも、相手が求めない限りは介入しないという。ある種の平行関係みたいなことが重要なのかなと。
そう考えると、うまく言えるか分からないですけれども、「利他」と言ったときの私がいて、他者がいてということを、自分と相手の関係を、むしろ間接化していくというか。直接人とつながらないような仕掛けのほうが、むしろ大事なような気がしていて。
今、いろんなことが簡単につながってしまっていて、簡単に分かった気になってしまうんですけれども。でも実は、人のことって分からないし、自分が何かしようとした投げ掛けも、本当の最適解か分からなくて。単なる仮説でしかないわけです。すべてを仮説として見ていく態度がすごく大事な気がしていて。こうやってみるけど、こうじゃないかもしれないという感覚。そういうことが、いろんな可能性を消さない道につながっていくんじゃないかなと思っています。
だから、いい媒介の仕方というか。自分と人をつなぐんだけど、同時に切り離してもいるという。そういう媒介の仕方みたいなものが。媒介の介って、介助の介ですよね。そういうものが大事なのかなと思っています。

小林:枝廣さん、どうでしょうか。

枝廣:いろいろ刺激的な時間でした。さっきの自己責任論的なところ。それは自己と他者の分断だと思うんです。お話があったように、たまたまその人たちはそういう状況で、たまたま自分はそうじゃないという。これが決定論的な、運命論的なものというよりも、さっきの仮説じゃないですけど、たまたまという、たまたま感というのはすごく大事だなと思っていて。
そうじゃない人たちは、自分たちが貧困じゃない、自分たちがうまくいっているのは、自分の力だと思っている人が多いと思います。
それで言うと、英語にしづらいので、通訳をやっていた時から悩んでいた日本語、昔から日本にある考え方の「おかげさま」とか「生かされている」とか。「生かされる」って、もちろん英語にできるんですけど、英語にするとby Godとか、何によって生かされているというのを付けないと据わりが悪い感じがして。でも、日本語で言う「生かされている」って、八百万の神はもちろんですけど、地球上のありとあらゆるもの、生きていても生きていなくても、自分たちの歴史とか、あらゆるものの網の目の中に自分がいるんだという感覚があると思います。たまたま今こっち側にいるとか、たまたまあの人は大変だとか。そうすると、もうちょっと考え方とかが、ケアの余裕が出てくる。
辻さんの、ケア・シェア・フェアって、ほんとにいいなと思って伺っていたんですけど。最初のケアは、お金もかからないでいつでも一瞬にしてできる。誰でもできる。誰に対してもできる。だけど、今その力をあまり使っていない。すごく大変なことではなくて、「あの人どうしているかな」とか「あの人大変じゃないかな」とか、一瞬思うだけでもいいので。そういうことをもう少しみんなができるような社会になっていくと、少しずつやさしくなってくるだろうなと思います。
シングルマザーだけじゃなくて、子育てとか、子どもに対する目が厳しくて、保育園もつくれないみたいな話になっていて。みんながそうやってしまうと、実は自分たちの首を絞めているんだということを、もう少しどうやったら伝えられるのか、どうやったら感じてもらえるのか分からないけど、皆さんとお話しさせていただいたり、小林さんたちが伝えていただくことは、いろんな人への気づきの一歩になるんじゃないかなと思って参加させてもらっていました。

小林:今、改めて、新しい思いを持っているところで、ap bankももう少し頑張っていけるなと感じています。辻さんに、最後にまとめてもらいたいんですけど、その前に赤石さん、どうでしたか。

赤石:「利他」や、いろんな言葉を。ケア・シェア・フェア。たまに頭にくると、フェアのところだけ言いたくなるんですが。でもこの3つ一緒がいいなと思いました。
1つお伝えできればと思いますが、自己責任と裏腹に、「助けて」と言うのがすごく困難な社会になっていて。私たちは、「助けて」と言っていいよという社会をつくりたいなと思っていて。みんな、いろんなことで困っているし、困る可能性があって、いろんな方に助けを求められることで豊かになるのかなと思っているので。
「助けて」と言われた側は、決して嫌がるわけではなくて、私が頼まれたらうれしくなる。私のこと、信頼してくれているから言ってくれたんだなというか。あなたを信頼してうるから助けてと言っているんだよという循環は、あるといいなと思っていて。
シングルマザーの方は、1人で頑張らなきゃと、困難な方ほどそういう信念を持っていたりするので。そうじゃないあり方を広められるといいなと思ったので。お伝えします。

小林:フェアということを思うと怒りが込み上げてくるというのはすごく分かります。
ただ、車のハンドルがそうですが、右に曲がりたいときに、例えば細い道とかだと特にそうですけど、ハンドルを右に切る前に一度左に切ることでうまくいくということがありますよね。これはストーリーテリングなどでもよく鉄則としても言われますけれども、正しいのは右だけだと思っていると、視野が狭くなってしまうということがあって。視野を広げるためには右に切る前に一度左に切ってから曲がっていく。
怒りというのも表現の仕方で使いようです。そこは全部蓋をするんじゃなくて、うまい道筋を見つけていくとうまくいけるかなと。このあいだ震災から10年目ということで櫻井くんと石巻でライブをやったんですが、実際そのライブでもそういうふうにしてみんなを誘っていけたということがありました。いろんな伝え方を駆使していきたいなと思います。
では最後に辻さん、まとめをお願いします。

辻:まとまらなくするのが、大体僕の役割。バンドって、ほんとにそう思います。ジャズなんかで言うと、もちろんスター的な人はいるんだけど、ちゃんと一人ひとりがソロを取ったりして。でも突出はしないんです、絶対に。コミュニティの本来のあり方はこういうものだったなと思います。
さっきシェアの話がありましたけど、狩猟採集民の社会などで一番大事なのは、格差をつくらないこと。これが最大のテーマです。格差というのは、ちょっと油断するとできちゃうんです。これもまた人間の本性であって、格差の種はいくらでもあるわけだから、どんどん伸びてくるわけです。格差を永続的なものにしない。上下関係を続くものにしない。これが世界共通のテーマだったと思います。持続可能性って、結局それですよね。これが、人類が何万年と培ってきた根源的な知恵じゃないかという気がします。
そういう意味では、利他的な行為の居心地の悪さ、いいことをして、「いいことしたね」と言われると、「いやいや」と隠れたくなるみたいなこの感覚がすごく大事じゃないかと思います。僕らは、本性として水平的というか平等的な生き物。これが、人間が人間たる由縁じゃないかなという気がします。自然界の中で、人間は独特の社会をつくって今日に至るわけですけど、支援が必要な人が「助けて」と言いにくい。それはなぜかと言うと、助けられたときにそこに上下関係が出現するからです。僕たちは、そういうことに気をつけなければいけない。「助けて」なんて言わなければ生きていけないような社会に、そもそも僕たちは住みたいのかということです。

小林:お互いに反応して、興味を持って、イメージしていることを響かせていけるんじゃないかという気はしているので。今日は素晴らしい言葉をいっぱいいただけたと思います。
この対談もそうですけど、今度はKURKKU FIELDSで音楽とセットにした何かをやれたらいいんじゃないかなと勝手に妄想していました。今日はありがとうございました。

今回ご参加いただいた枝廣淳子さん、辻信一さん、伊藤亜紗さんと小林武史の対談が
掲載されている書籍「A sense of Rita」対談集はこちらから(オンラインショップ)